関西帯広会には、12年前、大学の先輩の紹介で入会しました。25年前から大阪と十勝を行き来する生活をしていますが、生まれも育ちも、大阪です。生粋の大阪人と自負していますが、都会地の大雪警報に触れるたび、「ふん!それくらいの雪で!」と思ってしまうところを見ると、かなり北海道感覚が身についてしまっている、今日この頃です。道産子には、程遠いものの、北海道(と言っても十勝)への愛着心が浸透してきています。北海道(と言っても帯広ですが)との出会いは、ほぼ55年前です。以来、我が人生の多くの時間を北海道で過ごしてきました。今では、大阪よりも北海道で過ごすことが多い日常の生活で、さもありなん、と言うことでしょうか。

関西帯広会会合にて。

出会いのきっかけと言えば、帯広の大学への進学です。狭苦しい所から脱出したくなり、広大な十勝に建つ大学で、自然に触れながら勉学に励みたいと思ったのが、その始まりです。
大学卒業後は、地元大阪に戻り、企業に就職しました。入社した当初より『人生50年』ではないですが、50歳になったら何か変化をと、漫然と考えていました。その結果でしょうか、50歳を迎えて、間もなく、超早期定年退職し、十勝の大樹町に移り住み、今に至っています。で、大樹町で何をしているのかと言うと、毎日、自分の時間を自分のペースで過ごし、我儘な生活をしています。我儘な生活を維持する糧を得るため、月に1~2度は、帰阪し、残りの大半は、大樹で過ごしています。この生活が、もう25年も続いています。毎朝、リビングから見える、カラマツの防風林に囲まれた牧草地と遠く朝日に輝く日高の山々を眺めながら、夜明けの珈琲を飲むのも楽しみの一つになっています。(夜明けの珈琲、格好いい表現に聞こえるでしょうが、夜、何もない所で、自然と早寝早起き生活になっているというだけの話です)
大樹は、酪農が大きなウエイトを占める地域で、某有名乳業メーカーの工場があることでも知られる町です。この町では、北西に日高山脈が連なり、清流日本一になった事もある、今も砂金取りができる歴舟川が貫流し、太平洋に注いでいます。また、秋には、鮭の群れが河口から遡上する姿も見受けられます。そんな、自然豊かな大樹ですが、25年過ごす間に、目に見える変化がありました。それは、人口の減少です。大樹の中でも私が移り住んだ地区では、小中学校が統廃合で閉鎖され、近隣の人口も少なくなり、過疎化が目立ってきました。過疎化と言えば、数年前までは、都会地でない田舎の問題と認識されていましたが、今や都市部でも問題化しつつあるのでは、ないでしょうか。大阪でも、帰阪するたびに、中心部以外では、空き家や開かずのシャッターの商店街が目に付くようになってきました。

大樹町宇宙公園。

冒頭にも書きましたが、私は、生まれも育ちも大阪。大阪の中心地に程遠くない市街地で
生まれ育ちました。と言っても私が生まれ育ったころの大阪は、今の大阪とは、全く違い「水の都といわれた風情が、多く残っていた」と言いたいところですが、実際には、まだ、まだ、軍事工場の廃墟が残るような時代でした。いずれにしても、まだ幼かった私には、当時の時代背景を語れるほどの記憶は、ありません。しかし、それはそれなりの自然の中で喜んで遊んでいたのを覚えています。その遊ぶことを楽しむ感覚は、それからン十年経過した今も変わることはありません。だからでしょうか、異なる空気に触れることのできる大阪と十勝を行き来する、今の生活を飽きることもなく続けていられるのかなと思います。

関西帯広会新春の集いにて。

「異なる空気と触れる」と言いましたが、この異なる地で出会う人たちに共通するものを感じる時があります。それは『夢』です。大阪では、夢を持って開業・開店する人たちと出会い、十勝では、砂金掘りを楽しんだり、澄んだ空気の中で子育てをしたいと、移り住む夢をいっぱい持った人たちとも出会ったりします。そんな人たちとの出会い、私の我儘な日常を阻害しない程度に、出来る範囲で、ささやかな応援をすることが、この25年間の生活のエネルギー源の一つになっているのかも知れません。どこまで、この生活を続けられるか分かりませんが、人との出会いを、今後も大切にして行きたいと思っています。

関西帯広会理事会にて。